LOGINベルナへ向かったのは、翌々日の朝だった。
今回は、ゴードンと二人だけで行った。 マリオを連れて行かなかったのは、ルシェムの市場の調査員への目配りを続けてほしかったからだ。状況が動いている時に、現場を空けるのはリスクがある。 馬車の中で、ゴードンが仕上げた損失試算書を確認した。 ベルダンがアッシュフォード商会との取引を止めた場合、ベルナの病欠日数が月あたり推計でどのくらい増えるか。その増加が、ベルダンの他の商売にどう影響するか。数字を積み上げて、一枚の表にまとめてあった。 「よくできています」 「推計の部分は誤差が出ます。ただ、方向性は正しいはずです」 「方向性が正しければ十分です。ベルダンは数字を読める人間だ。細かい誤差より、構造を理解してくれる」 「そう思います」 馬車が街道を走った。 空は晴れていた。ロッソ商会に着くと、受付の男がすぐに奥へ案内した。
前回来た時と同じ応接室。革張りの椅子。窓から通りが見える。 ベルダンは、すでに席に座っていた。 エリナを見て、短く頷いた。 「来たか」 「お時間をいただきありがとうございます」 「座れ」 エリナとゴードンが席についた。 ベルダンが、しばらくエリナを見た。前回より目が細い。値踏みというより、確認しているような目だ。 「知ってるか。最近、うちに妙な話が来ている」 「存じています。取引を見直すよう、という話が来ている」 「知っていたか」 「フィオナ・クロスベルという人間が王都で動いてくれています。そちらからの情報です」 「ふん」ベルダンが少し顎を引いた。
「それで、お前はわざわざベルナまで来た。何を話しに来た」
「二つです。一つ目は、現状の説明。二つ目は、数字です」 「聞こう」エリナは、まず現状を話した。
クロヴェル家が、アッシュフォード商会への規制案を魔法省の会議に提出したこと。継続審議になったこと。取引先への圧力が始まっていること。 ベルダンは黙って聞いた。途中で口を挟まなかった。 「つまり、お前のところと取引を続けると、クロヴェルに睨まれる可能性がある、ということだ」 「そうです。それは否定しません」 「正直だな」 「正直でない交渉は、長続きしません」 ベルダンが少しだけ口元を動かした。笑い、ではないが、笑いに近い何かだった。 「それで、数字を見せろということか」 「はい」 エリナはゴードンから書類を受け取り、ベルダンの前に置いた。 「これは、ベルダン会頭がアッシュフォード商会との取引を止めた場合の、ベルナへの影響の試算です」 ベルダンが書類を取った。 しばらく、黙って読んだ。 エリナは急かさなかった。 数字を読む人間には、時間を与える。それがゴードンに教わった交渉の原則の一つだ。 やがて、ベルダンが顔を上げた。 「病欠日数の試算か」 「はい。石鹸が普及してから、ベルナの月あたりの病欠日数は推計で三割近く減っています。その根拠は、薬屋の販売記録と、うちの商会の供給記録の両方から出しています」 「薬屋の記録まで取ったか」 「第三者のデータが必要でした。私たちの記録だけでは、私たちに都合よく書いていると言われる可能性がある」 「それで、もし取引を止めれば、この病欠日数が戻るという話か」 「戻る可能性が高い。全部が戻るとは言い切れませんが、傾向は出ます」 ベルダンが書類を机に置いた。 「それが、うちの商売にどう影響するかまで書いてあるな」 「はい」ゴードンが口を開いた。
「ベルダン会頭は、ベルナで複数の商売をされています。労働力の維持は、それらすべてに影響します。病欠が増えれば、職人の稼働率が下がる。職人の稼働率が下がれば、地域全体の生産量が落ちる。それは、直接的にも間接的にも、会頭の商売に影響します」
ベルダンが少し目を細めた。 「老会計士が、よく調べた」 「長年、数字を扱ってきました。数字は、正直に読めば嘘をつきません」 しばらく沈黙があった。 ベルダンが窓の外を見た。ベルナの通りが見える。荷馬車が一台、ゆっくりと通り過ぎた。 「お前たちが来た時から、うちの商売は少し変わった。石鹸と薬草薬を置くようになってから、客の層が変わった。健康に気を遣う人間が来るようになった。その客は、他の商品も買う」 「知りませんでした」 「言っていなかったからな」ベルダンが少し笑った。
「商人は、自分に有利な情報を先に出さない。それが癖だ」
「私も同じ癖があります」 「お前もか」 「交渉の場では」 ベルダンがエリナを見た。前回とは少し違う目だった。前回は値踏みしていた。今日は、何か別のものが混じっている。 「一つ、聞いていいか?」 「どうぞ」 「クロヴェルと、最終的にどうするつもりだ」 エリナは少し考えた。 「正面から戦うつもりはありません」 「なぜ?」 「今の私には、正面から戦う力がない。でも、時間があれば、数字が積み上がる。数字が積み上がれば、魔法省の規制案を通す根拠が弱くなる。根拠が弱くなれば、審議を止め続けることができる」 「時間を稼ぐ、ということか」 「そうです。一年という期限がある。その期限の中で、誰が見ても否定できない実績を作る。それが今の方針です」 「一年後に、何がある」 「王宮への報告があります。国王陛下が、一年の結果を見て、父の改革案の是非を再び議論する場を設けると約束してくださいました」 ベルダンが少しだけ、目を細めた。 「陛下が、直接……」 「はい」 「それは——」ベルダンが少し間を置いた。
「大きな話だな」
「大きすぎるかもしれません。でも、受けた約束です」 沈黙があった。 ベルダンが再び書類を手に取った。数字を、もう一度確認するように見た。 「お前たちとの取引を続けることが、ベルナ全体への投資だと、そういうことを言いに来たのか」 「そうです」 「で、クロヴェルの圧力があっても、続けろと」 「続けてほしいとは言いません。判断はベルダン会頭のものです。リスクがあることは事実だ。それを飲んでくれと頼むのは、こちらの都合です」 「では、何を言いに来た」 「判断に必要な情報を、正確に届けに来ました。続けることのメリットと、止めることのコスト。両方を、数字で。それを持った上で、ベルダン会頭が決めてくれれば、私たちはその判断を受け入れます」 ベルダンが書類を置いた。 少し、長い沈黙があった。 エリナはその沈黙を、動かさなかった。 前回の交渉でも、この人は沈黙の中で考える人だと知っていた。 やがて、ベルダンが言った。 「お前は、なぜそんなに正直なんだ」 「嘘をついて長続きする取引はないからです。前回も言いました」 「同じことを言うな」 「同じことだから、同じことを言います」 ベルダンが、少しだけ声を立てて笑った。 前回の交渉でも、一度だけそういう笑い方をした。声に出る笑いだった。 「わかった、続ける」 「よろしいのですか?」 「条件がある」 「聞かせてください」 「一つ。もし規制が通って、お前たちの商品の供給が完全に止まる事態になった時、私に先に知らせること。代替の対応を一緒に考える時間がほしい」 「わかりました」 「二つ。半年に一度、こうして直接話す機会を作ること。代理人ではなく、お前が来ること」 「来ます」 「三つ目」ベルダンが少し間を置いた。
「一年後の王宮への報告、どうなったか教えてくれ。結果を聞きたい」
エリナは少しだけ、目を細めた。 「それは——」 「商人として、投資の結果を知りたい。お前たちとの取引を続けることは、ある意味では賭けだ。その賭けの結果を、知りたい」 「わかりました。必ず報告します」 ベルダンが手を差し出した。 エリナはその手を握った。 大きな手だった。 前回も、この手の大きさを感じた。 今回は、前回より少しだけ、力が込められている気がした。帰り道の馬車の中で、ゴードンが言った。
「見事でした」 「何がですか?」 「判断を押しつけなかった。情報を置いて、選ばせた」 「それしかできません。最終的な判断は、相手のものです」 「でも、情報の届け方で、判断の方向は変えられる」 「それは、操作ではありませんか」 「誠実な情報を、正確に届けることは、操作ではないと思います。操作とは、不正確な情報や、一方的に都合の良い情報を使うことです。あなたは今日、リスクも正直に伝えた」 エリナは少し考えた。 「ゴードンさん」 「はい」 「ギルドで告発した時も、同じ考え方でしたか。正確な情報を届けることが、誠実さだという」 ゴードンが少し間を置いた。 「そうだったと思います。でも、あの時は届け方が足りなかった。誰に届けるかを、間違えた」 「今は?」 「今は、届ける相手を間違えていないと思っています」 馬車が揺れた。 ルシェムへの街道が続いている。夕方、長屋に戻ると、マリオが待っていた。
「どうだった」 「続けてもらえることになった」 「よし」マリオが拳を握った。
「市場の方は?」
「何かありましたか?」 「調査員らしき二人組が、また来てた。今日は市場の外れで、しばらく立っていた。グレンさんが記録してくれている」 「ありがとうございます。グレンさんに伝えてください、引き続き頼むと」 「伝える」マリオが少し考えた。
「なあ、エリナ」
「何?」 「今日、ベルダンと話してて、怖くなかったか?」 「少しは」 「でも、ちゃんと話してきたんだろ」 「そうです」 「それでいい」マリオが笑った。
「俺には、そういう話はできないから」
「マリオにしかできない話もある」 「そうだな。俺は市場で顔を作っておく。お前は王都に向かって話をする。それでいいな」 「それでいい」夜、エリナは机に向かった。
フィオナへの報告を書いた。ベルダンが続けると決めた経緯を、簡潔に。 最後に一行添えた。 『ベルダンが、一年後の王宮報告の結果を知らせてくれと言った。投資の結果を知りたいと。私たちの戦いを、見ていてくれる人が増えている。』 それから、レインへの短い手紙を書いた。 ベルダンが続けると言ってくれた。数字が、動いてくれた。 あなたの「一年前の自分が見たら驚くか」という問いを、今日もう一度使った。ベルダンと話しながら、一年前の自分が今の自分を見たら、少し驚くかもしれないと思った。 あなたが教えてくれた問いが、ここまで来て役に立った。 残り、五ヶ月を切った。 ――エリナ―― 書いて、封をした。 机の上に二通の封筒が並んだ。 窓の外から、夜風が入ってきた。 ベルダンが言っていた言葉が、頭の中に残っていた。 一年後の王宮への報告、どうなったか教えてくれ。 投資の結果を知りたい。 見ていてくれる人が、また一人増えた。 エリナ・アッシュフォード、八歳。 数字が、今日も動いた。 それで、今夜は十分だ。フィオナがルシェムに来たのは、謁見から二週間後のことだった。 予告なしだった。 朝、市場から戻ったマリオが、息を切らして事務室に飛び込んできた。 「フィオナさんが来た」「どこに?」「市場の入り口。馬車で来てる。荷物が多い」「荷物が多い?」「トランクが二つある」 エリナは少しだけ止まった。 「泊まりではなく、しばらくいるつもりですか」「そういうことじゃないか? 迎えに行くか?」「行きます」 市場の入り口に着くと、フィオナが馬車の横に立っていた。 久しぶりに、ルシェムで見るフィオナだった。 王都で会った時とは少し違って見えた。服装は変わらないが、顔が少し違う。 疲れている、と手紙に書いていた。 確かに、少し疲れた顔をしていた。 でも、エリナを見た瞬間、目が変わった。 「来た」「来ましたね、予告なしで」「予告したら、準備されすぎると思って。あなたのことだから、部屋を完璧に整えて、食事まで用意して待っていそうだから」「そうしようとしていました」「でしょう。だから、言わなかった」「荷物が多いですね」「しばらくいようと思って」 フィオナが少しだけ声を落とした。「王都からの仕事は、手紙でできる部分も多い。しばらくルシェムで動きながら、こちらの空気も吸いたかった」「どのくらい?」「一週間か、二週間か。決めていない」「決めなくていいです。いたいだけいてください」 マリオが荷物を運んでくれた。 フィオナが見ると、少し驚いた顔をした。 「マリオ、大きくなった?」「なってないと思うけど、フィオナさんが久しぶりに会うから大きく見えるだけじゃないか?」「そうかもしれない。でも、なんか違う。顔が違う」「どう違う?」「前より、落ち着いた顔をしてる」「そうかな」
翌日から、エリナは動き始めた。 といっても、急いでいるわけではなかった。 落ち着いて、一つずつ。 謁見の翌日以降に何をするかは、帰り道の馬車の中でゴードンと話し合っていた。 優先順位は決まっていた。 一つ目、商会の代表変更の正式書類を処理する。二つ目、各町の現場責任者に謁見の結果を報告する。三つ目、フィオナと連携して規制案の継続審議への対応を続ける。四つ目、学院の衛生教育の検討に、商会として協力できることを提示する。 どれも、急ぎではない。 でも、止まってもいない。 まず、商会の代表変更の書類が届いた。 アルバ殿下が約束した通り、一週間以内に書状が来た。 正式な書類に、エリナ・アッシュフォードの名前が入っていた。 アッシュフォード商会の代表者、エリナ・アッシュフォード。 ゴードンがその書類を机の上に置いた。 「これで、正式になりました」「そうですね」「どういう気持ちですか?」 エリナは少しだけ考えた。 「思っていたより、静かな気持ちです」「静か、とは」「もっと大きな感情が来ると思っていた。でも、静かだった。当たり前のことが、形になった、という感じです」「それが、正しい感覚だと思います」ゴードンが静かに言った。「当たり前のことを積み上げてきたから、当たり前に形になった」「ゴードンさん」「はい」「代表名義をずっと引き受けてくれていた。本当にありがとうございました」「礼はいりません。でも、受け取ります」 それだけだった。 それで十分だった。 次に、各町の現場責任者への報告をした。 マグダ、シェナ、ジルカに、それぞれ手紙を書いた。 謁見の結果。陛下が約束を守ってくれたこと。商会の活動が引き続き認められたこと。今後も続けることができること。 返事は、それぞれ三日以内に来た。 マグダから。 エリナちゃん
ルシェムに帰った翌朝、エリナはいつもより少しだけ遅く起きた。 目が覚めた時、空はすでに明るかった。 珍しいことだった。 いつもは夜明け前に目が覚める。でも今朝は、光が差し込んでから目が開いた。 しばらく、布団の中でそのままいた。 これも珍しいことだった。 起きたら、すぐに動く。それがいつものエリナだった。 でも今朝は、少しだけそのままいた。 窓の外から、ルシェムの朝の音が聞こえた。 市場へ向かう人の足音。遠くで犬が吠える声。風が木の葉を揺らす音。 帰ってきた、と思った。 昨日も思った。でも、今朝も思った。 ここが、自分の場所だ。 台所に行くと、セレーナが先にいた。 「おはよう」「おはようございます」「よく眠れた?」「はい。遅くまで眠っていました」「そう。今日くらいは、いいんじゃない?」「そうかもしれません」 薬草茶を作りながら、エリナは窓の外を見た。 冬の朝の空は、澄んでいた。 「お母さん」「うん」「昨日、ゴードンさんから聞いた話があります」「何?」「学院が、来年から衛生教育を取り入れることを検討しているそうです。石鹸の使い方、薬草薬の知識、傷の手当ての手順を、学院の教育に組み込む話が始まっている」 セレーナが少しだけ手を止めた。 「それって、どういうことになるの」「学院で教えれば、学院の生徒が卒業して各地に行く時に、その知識を持っていく。一人が届けられる場所より、ずっと広い範囲に届く」「あなたが一年でやったことが、もっと広がるということ?」「そうなるかもしれません」「お父さんが聞いたら、何と言うかしら」 エリナは少しだけ考えた。 「『私よりうまくやっている』と言うか、それとも『まだ足りない』と言うか」「この前も同じことを言ったわね」「同じこ
翌朝、エリナは早く起きた。 今日、ルシェムに帰る。 荷物を確認した。報告書の写し。確認書の写し。殿下から預かったアッシュフォード商会の正式な代表変更に関する書状の下書き。そして、セレーナへの手紙。 全部、ある。 朝食を三人で食べた。 フィオナが、珍しく朝から饒舌だった。 「昨夜の話、全部聞かせてもらうって言ったけど」「聞きますか?」「聞く。でも、今は聞かない」「なぜですか?」「あなたの顔を見れば、大体わかるから。今日は、その顔で十分」「どんな顔をしていますか?」 ゴードンが静かに言った。 「昨日フィオナが見たかった顔」 出発前に、フィオナと二人になった。 宿の前の小さな通りで、少しだけ話した。 「フィオナ、これからどうするんですか?」「王都にいる。まだやることがある。規制案はまだ継続審議のままだ。陛下が認めたとはいえ、クロヴェルが諦めたわけじゃない」「そうですね」「でも、今日は違う話をしたい」「どんな話ですか?」「あなたが帰った後のことを、少し考えた。王都に来てからの一年間、私はずっとここで動いていた。でも、いつかルシェムに行ってみたいと思っている」「ルシェムに?」「マリオとルナに、会いたい。あなたが話してくれた人たちに。あなたが動いてきた場所を、見てみたい」「来てください、必ず」「いつ行けるかはわからない。でも、行く」「待っています」 フィオナが少しだけ笑った。 「その言葉、昨夜もレインに言ったでしょう」「言いました」「同じ言葉が、自然に出てくるようになったんだね」フィオナが穏やかに言った。「前のあなたには、なかった言葉だと思う」「そうかもしれません」「いい変化だと思う」 フィオナが手を差し出した。 エリナはその手を両手で握った。
謁見が終わって、王宮を出たのは昼過ぎだった。 アルバ殿下が廊下で待っていた。 「よくやりました、エリナ殿」「ありがとうございます。殿下の準備がなければ、今日はなかった」「王都のデータは、効きましたね」 殿下が少し笑った。「右側の列が、ざわついた」「見えていました」「父上は、満足そうでした。あの顔は、久しぶりに見た。一年前に、『わくわくしている』と言いましたが、今日はそれ以上でしたよ」 エリナは少しだけ、その言葉を受け取った。 「殿下、商会の代表についてお願いがあります」「ゴードンさんから聞きました。昨夜、連絡をいただいた」「はい。正式にエリナ・アッシュフォードの名で商会を持てるよう、陛下にご確認いただけますか?」「すでに父上に話しました。年齢の問題は、特例として認めていただける方向です。正式な書類は、来週中に届きます」「ありがとうございます」「アッシュフォード商会の代表が、アッシュフォードの名前になる。当然のことですから」 王宮の外で、師匠とレインが待っていた。 師匠がエリナに言った。 「一つだけ言っておく」「はい」「今日の発言で、一番良かった部分を教えてもいいか?」「ぜひ」「クロヴェルへの返答だ」 師匠が静かに言った。「感情で返さなかった。でも、感情がないふりもしなかった」 エリナはフィオナが昨日言っていた言葉を思い出した。 「感情がないふりもしなくていい、という言葉を、昨日フィオナからもらいました」「賢い子だ、フィオナ殿は。あの返答には、あなたがいた。数字だけではなかった」「届きましたか?」「届いた。俺には届いた。他の人間にも届いたと思う」 師匠が一歩退いた。 「俺はこれで失礼する。よくやった」「先生、ありがとうございました。一年間、本当に」「礼
謁見の日の朝、エリナは四時間ほど眠った。 眠れると思っていなかったが、眠れた。 目が覚めた時、空はまだ暗かった。でも、もう眠れなかった。 起きて、顔を洗って、薬草茶を作った。 ルナが持たせてくれた葉を使った。 温かい湯呑みを両手で持って、部屋の窓から外を見た。 王都の夜明け前。 ルシェムとは違う空の色だった。でも、夜明け前が静かなのは、どこでも同じだった。 今日、謁見の間に立つ。 もう一度、確認した。 怖い。でも、届けたい。 それだけでいい。 朝食を三人で食べた。 フィオナが、珍しく静かだった。 いつもは何か言う人だが、今朝は食べながらあまり口を開かなかった。 エリナが「どうかしましたか?」と聞くと、フィオナが少し笑った。 「緊張してる」「フィオナが?」「私も人間だから。あなたが緊張するより、私が緊張してる気がする」「なぜですか?」「あなたが上手くいくかどうかを、見ている立場だから。自分が話すより、大事な人が話すのを見ている方が、緊張する」 エリナは少しだけ、その言葉を受け取った。 大事な人が話すのを見ている方が、緊張する。 「フィオナ」「何?」「今日、謁見の間に入れますか?」「入れない。謁見の場に入れるのは、名前がある人間だけ。私には、今は資格がない」「そうでしたか」「廊下で待ってる。終わったら、すぐ出てくるでしょう。その顔を見る」「どんな顔をしていると思いますか?」「わからない。でも、見たい顔をしていると思う」 謁見の前の十分間は、王宮の廊下の一角で過ごした。 フィオナ、ゴードン、エリナの三人。 廊下は石造りで、冷たかった。外の空気が、石を通して伝わってくる。 エリナは上着の内ポケットに手を当てた。 手紙が、ある。 フィオナが言った。 「今日の目標を、一つだけ確